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22歳

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 先日、22歳になった。ここ数日、全然文章を書く余裕がなかったけど、5月25日の誕生日から早くも2週間が経とうとしてて、なんだか時の流れは... という気持ちになる。前に銀魂を見ている時に銀さんが「年取ってくると一年がF1カー並みのスピードで過ぎていくからね、お前らももうすぐだよ、もうベン・ジョンソンくらいは来てるからね」って神楽と新八に言ってた。神楽と新八は多分おれよりも若いので、おれにはもうトムソンガゼルくらいが来ているのかもしれない。いつもナショナルジオグラフィックで食べられてるとこばかり撮られているあいつも、本気を出せば結構速いらしい。ともあれせっかく誕生日を迎えたので記録として駄文を残そうと思う。ハッピーバースデートゥーミー。  実を言うと文章を書く余裕が、時間的にも精神的にも無かった。というかこの二つは繋がってて、精神的な余裕のなさが明らかにパフォーマンスに影響していて、時間的な余裕が全然なくなっていた。立て続けに良くないことが起こったりして、個人的には人生で一番凹んでいる誕生日かもしれない。いや、いいこともいっぱいあった。初海外でカナダにも行けたし、誕生日の夜には地元福岡の友人がたまたま京都から来てくれて、誕生日を祝ってくれた。そうだ、多分平均的な日常よりもいい日だったんだと思う。でも人間、嫌なことがあって心の余裕がなくなるとそのことばかりに気を取られてしまうもので、どうもそういうよくないサイクルに陥っていた。よくない、非常に。これが俗に言う病み期と言うやつだろうか。だとしたらSNSで病み期来たとか言っている人たちいつもバカにしてごめん。  実際、どんな良くないことがあったかって言うと、大きく分けて留学準備への不安と人間関係のもつれだ。留学では奨学金の申請が通らなかったり、行きたかった学校のコースが今年から無くなったりした。人間関係はもつれにもつれた。なんというか、長年蓄積してきた誤解やストレスがピークに達して、おれ自身耐えられなくなったんだと思う。人間関係で悩みたくないから、できるだけ少数の人としか深く関わらないようにしていたが、そういった少数の中で問題が起きると、うまく言えないけど、はけ口がない。孤独だ。留学への不安と孤独とがあいまって、どうしようもない気持ちになった。  それが、誕生日前日くら

多様性の誤解

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21世紀は、多様性の世紀と呼ぶこともできると思う。差別的な発言は大きなバッシングを食らうようになったし、LGBTなど性的マイノリティへの理解も進んでいる。根底にはインターネットの発達で誰もが意見を発信(そして受信)できるようになった下地がある。Youtuberなどは一つの多様化の象徴だ。大きな人種や性別の差だけでなく、パーソナリティやコミュニケーションの面においても同様で、最近はちょっと気に入らない人がいても、「まあ人それぞれだしね」「そのひとが幸せならいいじゃないか」とか、自分に対する反対意見が出ても「これが自分の価値観だから」といった主張をよく聞く。  これはこれでいいことなんだけど、最近こういう多様性を誤解して無意識のうちに盾にしてしまっている人をよく見かける。主に「議論を放棄」タイプと、「詭弁で正当化」タイプだ。最近かなり周りに多くなってきたので正直疲弊している。 「議論を放棄」  このタイプは本当に多い。公私問わず議論は頭を回転させるためのきっかけになるのだが、そのような場で意見を殆ど持ち得ないのがこのタイプだ。例えばおれの周りでは「ステレオタイプの就活や、それに染められる大学生はいかがなものか」や「日本の音楽チャートがアイドルで埋まり、まともな音楽番組なども消失しているけどこれでいいんですか」などという批評的な議論は日常よく出てくる。野暮なのはわかっているんだが、こういうことをああでもないこうでもないと話すのは楽しいし、こういうことを続けていくことで自分なりの知見を持つことができる。そう、改憲の是非なんかもそうで、答えは基本的に存在しない。だが、基本的には議論を続けていくことに意味がある。そのような場で一気に議論を強制終了してしまうのがこのタイプだ。「今の就活生って、就職がゴールになってて、それはやはり違うんじゃないか」とか発言しようものなら、「人それぞれだから、その人がそれでいいならいいんじゃない?」とか言い出す。  あ、はい...いや、そうなんだ、究極的にはね、その人がよければそれでいいんだけど、そんなこと言ってたらすべてにおいて意見を持てなくなってしまうじゃないか。だから人それぞれなんて百も承知で、それでも自分はこう思う、というのが議論でしょ。どこかに、発言=価値